• イヌワシの保護活動とワシ羽矢

    町長辞職からロシア短期留学まで石狩と弓道⑮の後より      2024,8,18          

     1980年5月弓道がこれからという時に石狩町長になりました。石狩新港をかなめにした公害の少ない都市つくりに努力しました。カナダ.中国.ロシアと姉妹都市提携を進めました。休む間もない多忙な日が続きました。

     1994年11月5日早朝6時に公宅のチャイムが鳴りました。

     二人の私服刑事でした。応接間に案内すると、事情を御伺いしたいので同行下さい。そのまま札幌市の中央署につきました。顧問弁護士をお呼びください。

     午後に先生が見えました。

    「公宅の応接間上段右側に厚めのロシア語辞書が有ります私に届けて下さい。取り調べには私が全て事実を答えます。ご尽力下さい」。

    収賄を認め町長を辞任しました。

    就任してから14年半経っていました。収賄事件は執行猶予となりました。

     その後、ロシアサハ共和国アレクセーエフ環境大臣に「町長をやめたのでヤクーツクでの鷲羽根飼育が可能になりました。」と連絡を取り、大臣から「鷲飼育はニコライエフ.サハ大統領も了解されていますので早くサハに来て下さい」と回答があった。

     モスクワ大学に留学をしてロシア語.ロシアの歴史を学んでから訪問すると伝え、翌年モスクワ大学の短期留学が実現し若い時の勉強不足を取り返すように大学寮生活が始まりました。授業が終わるとモスクワバレイ.ボリショイサーカスを観て.クレムリンも何度も訪れ歴史文化を学びました。モスクワ動物園長に面談を申し入れ実現しました。エルミタージュも毎日観て歩きました。

     モスクワ動物園に鷲類の飼育実態を見学しようと園長に面会を申し込み弓道に使用出来る鷲羽根(大鷲.オジロワシ.犬鷲.熊鷹.草原鷲(ヴァルチャー)の確認も出来ました)。

     園長と大鷲.熊鷹購入の商談になりました。「オオワシ.熊鷹は極東地域に生息しています。1羽だと50弗つがいだと250弗で販売出来ます。」と言われたが、私は「日本で尾白鷲イヌワシも飼育しています。サハ共和国ヤクーツクで鷲類の飼育を予定しています。」と答えた。

     モスクワ大学のインナ教授から自宅に招待されました。教授が「チェルノブイリ原発事故当時に私達に一切は知らされませんでした。三日後黒い雨が降りました。その後両親と私は甲状腺ガンになり二人は亡くなりました。私も今は水を飲んでも太ります。原発を地上から無くさなければなりません。」と話した。事故発生から10年目の留学でした。

     日本からのモスクワ大学留学生は30人をこえていました。仲間からプロフェサー(教授)と直ぐに「あだなで呼ばれるようになりました。留学寮は大学の中心部、九階に用意され全て個室でした。

     一階で守衛にパスポートと身分証を呈出すと了解の証明書が発行され首にかけると構内各部屋に自由に出入りできます。大学の近くにモスクワ川が流れていてこの年一月は気温が低くマイナス30度の日が続き凍結していました。歓声が聞こえたので見に行くと。堤防に小さなジャンプ台が設置されていて少年から大人まで参加し楽しんでいます。成功すると歓声があがります。人が集まり売店も出てマトリョーシカが売られています。ゴルバチョフ氏のもあり良く見ると売れていました。寒くなり寮に戻ると日本のコケシがヒントで工夫され抗菌作用のある白樺で出来ていると教えてくれました。

     三月になると気候も緩み春の息吹を体感します。

     午後の授業中突然サイレン聴こえ軍隊?警察?が大勢教室に入ってきました。出て建物に入って来ました。ボンベです(爆弾騒ぎ)。教授も生徒一階に降り外に出ます。沢山の人々が手持無沙汰に終わるのを待っています。

     二時間ほどするとサイレンがなり捜索活動が、終了し警察?が撤収しました。留学生は私が自室にいると集まり授業.ロシアの情報を交換します。モスクワ近郊の都市を訪ねその様子を話してくれます。やって見ようと思いサンクトペテルブルグ行きを予約しました。私もはじめての小旅行を企画しました。土曜日最終便でモスクワを発ち翌朝サントぺテルブルグに到着し朝食を終えた後に、終日美術館.資料館を巡りロシアの文化と歴史を学ぶのです。出発はモスクワ駅からです。土曜の夜遅くモスクワ駅に着きました。ヨ―ロッパ.極東交通の原点です。余りの広大さに圧倒されました。いずれも此処からシベリア鉄道で回りロシア第二の都市を訪問しCCCP(ソビエト社会主義共和国連邦の略称)を少し解かったような気がして、初めてのロシア旅行が自分でも可能と嬉しく思いました。

     5月9日に戦勝記念の行事がクレムリンで開催されるのを知りました。勉強の一つと思い早めに起き広場に行き、特設会場のチケットを買い求め入口から展示されている説明文を見て巡りたい、ロシアの歴史の勉強になると思いました。

     戦勝記念行事の展示内容は、ヨ―ロッパ戦線のドイツヒトラーとの長く寒い戦いでした。残虐な敵はロシアの多くの都市を焼き払いロシア人を殺しました。戦況の不利な時にモスクワも捨て北に逃れました。我々ロシア人は食料を渡さない作戦と冬の到来で戦況が大きく変わりました。ドイツ軍は冬の寒さ耐えられずに氷って死にました。ヨーロッパ戦線も連合国が苦戦していましたヒトラーはピストル自殺。

     イタリアの独裁者ムッソリニーは国民に惨殺されました1941年5月9日連合国が勝利をおさめた1941年5,9がヨーロッパ戦線終結した終戦記念日です。その時未だ戦っていた日本の東条英機はインド洋でプリンオブウエールズ.レパルスのイギリスの巨大戦艦が日本のゼロ戦「隼」に撃沈されました。ロシアが助けに入り戦局は好転し。苦戦していた極東戦もロシアの力で勝利し世界に平和が訪れました。サハリン.北方四島.アリュウシャン列島もロシアの領土と歴史上証明されていてヤルタ会談でも世界が認めました。第二次世界戦争はロシアが枢軸国の侵略から祖国を守り抜き1945年9月に終結した。我が国が築いた世界平和です。

     私は説明文を見るうちにだんだん気分が悪くなりました。

     何てウソばかり並べ展示してるのだ。サハリンも、択捉島 、 国後島 、 色丹島 、そして 歯舞群島も全て日本の領土。無条件敗戦を認めたのは1945,8、15に第二次世界大戦は終結した。

     その後に日ソ不可侵条約を一方的に破り攻め続けた終戦後9月と国際法も無視し日本軍無抵抗の日本人を殺し続けたのがロシア人で日本国固有の領土を奪ったのもロシア人。私は見るのを止め暗い気持ちで会場を後にした。

    大学構内のリンゴの花が咲き春が訪れました。

    モスクワ留学に向かう時に

    ➀買い物が出来るようになる事。②公共交通機関に自由に乗れるようになる事。③生きて戻る事。この三つは何が何でもやり抜く事と悲壮な決意でしたが無事に石狩に帰り着きました。

     番外編として放浪者の集団に襲われ金を盗られた事でした。

     留学してすぐに先輩留学生から「放浪者に襲われたら抵抗しないで地べたに倒れます。治安が悪いので30弗程度をポケットに用意しておいて入れた指で教えます。抵抗してはいけないし,ポケットに手入れる事は凶器で戦うと勘違いされてもいけない。」と注意を受けていました。

     今の時代にこんな人々が存在しているのかと思いました。それが寒い日、地下鉄の駅で起きました。到着駅が放送されスピードが落ち停止する寸前でした。周りを20人程の子供達に取り巻かれルーブルを要求されました。床に倒れ指でポケットを指すとお金だけ盗りドアーが閉まる間の寸時の出来事でした。

    ロシアの財政破綻で年金も減り生き延びる事に必至の様子でした。市内の街角でゴミ箱を開けバナナの皮を貪り食べていた老人を何人も見ました。電車内で事はロシア人の乗客は誰一人声かけも助けも無かった。

     寮に戻り皆さんに話すと「何より無事で良かった駅構内での放浪者は戦争等で国籍を持たない少年少女の集団」だと教えられました。

    戦勝記念日の展示見た後、サハに行かなければならないと留学を終わりにしようと決め日本に帰る準備を始めました。教授室にお礼の挨拶をして留学生活を終えて石狩に戻りヤクーツク向かった。

    ヤクート空港にはアレクセーエフ環境大臣.スポーツ大臣.ペーチャ報道官が向えに来ていました。