中国訪問鷲羽根輸入 広州交易会 2023,10,16記
日中友好協会会員になった私に広州交易会の案内が来た。1966年5月初めての国際見本市商談会に参加する。広州はまだ暑く季節の変わり目で、天候も悪いと聞く。薬を用意し成田から香港に向かった。
汽車にのり深圳(シンセン)で降り歩いて国境を通過する。当時は稲穂が広がり人口1000人程度の集落でした。今は人口400万人の国際都市です。国境を通過した汽車に乗り、広州市に向かう。交易会は広く大きい。区分けし、コーナーごとに工業品、織物類、生活雑貨、骨とう美術品と続いている。
アメリカ、ヨーロッパ、中近東、アジアからも多くの人々が参加した。鳥類のはく製コーナーで青海省から出品された鷲羽根を見つける。イヌワシ丸羽根10ドルで何処でとれたかと確認する。烏魯木斉(ウルムチ)と答えた。磯鷲、白鷹は青海省とわかった。
商談に入り、名刺を交換すると天津市出身の呂志乾先生(中日友好協会役員)が堪能な日本語を話す。見本をみて注文用紙に数を書き込みインボイス(注文明細書)、そして契約書を揃える。商品が日本に着いて間違いないと確認出来た段階で支払する。取引はドルで、中国の指定する北京の銀行に入金する。
一年の納期限に間に合わない場合、前もって理由を知らせる。すべての書類にサインをした。
悪天候の中、2日間の視察商談で体が何か変だ。ホテルに戻り日本からの頭痛薬、抗生物質、胃腸薬を大量に飲む。朝起きるとさらに頭痛、腹痛体調が良くない。さらに抗生物質を飲み横になる。帰りの日程も迫っているので11時過ぎに会場に行く。
展示品を見ようとした時、右目の中に何か飛び込んだ。咄嗟に払うが何度払っても出て行かない。鏡を見ると眼球が真っ赤になりうっ血している。ホテルに帰り冷たいタオルで冷やし、ベッドに横になる。少し落ち着くと読みかけの重役室(黒岩重吾作)が気になり一気に読む。夜6時からの南京歌舞団の招待を思い出した。
曲芸、手品、歌劇と3時間あっという間にすぎる。次の朝、目は全く見えなくなった。会場に行き呂先生に伝える。日本人スタッフ.呂先生.私で中山病院に行く。少し診断した後即入院となる。眼科専門医が確認し、右目眼底出血重症です。ベッドに上向きに寝てください。呼吸を静かに眼球を動かしてはいけない。寝返り横向き禁止です。漢方で治療するのでサインしてくださいと言われる。
2時間ほどすると大きな魔法瓶と薬を持ってきた。右目は見えない。黒く苦い漢方薬を1リットル飲んだ。この時点で皆と一緒の帰国は無理と半分諦めた。
訪問団は帰国した。私は両眼に包帯をしたまま一切を禁じられた。苦い漢方薬を朝昼夜寝る前飲み続けた。日本に帰りたい。想う事も考えることもいけない。
三日目の朝医師が来て包帯を取った。右目がうっすらと明るくなったような気がした。思わず医師に「見えます、退院して日本に帰ります。」と言った。医師が驚いた。そして機械をもってきて細かく診察し「貴方は間違えている右目はみえません。左は最初から見えています。」と診断した。
異国の地で片目で死ぬのは嫌だ石狩に帰ろう。帰れたら死んでも構わない。「目は見えます。退院します。」と言い続けた。呂先生が病室に来たので、「私はどんなことがあっても退院します。一切の責任は私にあります。」と誓約書を書き頑張った。医師があと二日間安静にし薬を継続して下さいと言った。さらに三日目の朝。何となく見えるような気がする。医師が器具を持って入ってきた。「帰国したらその足で眼科専門医に行きこれを見せて入院治療を開始してください。病状と治療法が書いてあります。」呂先生の立ち合いですべての責任は私に有りますと二度目を書きサインした。呂先生に明日帰国します。チケットの確保をお願いします。と言った。いつも階段、段差に気を付けてくださいと何度も言われた。翌日眼帯をしたまま飛行機で香港に飛んだ。
ホテルを探した。何度も段差につまずいた。
成田に着いたときホッとした。眼帯を外して石狩に帰り力が抜けた。病院にも行かなかった。自然治癒力を信じ遠くの「雄冬連山」を何時も見ていた。薄皮をはぐように十年で完治した。
一年後、青海省からインボイス通りの弓道用羽根が石狩に着いた。