新町長が誕生し、石狩町が新旧和合の町創りを目指し石狩川のサケの町から石狩新港の町へと歩みだしました。
私は1966年の国際見本市に参加して以来、更に弓道の復活に専念した。和弓矢製造工場設置の話し合いも天津市の呂志乾先生(広州の国際見本市の際に大変お世話になった)、幹部との話し合いも順調に進みました。来年4月には本契約に天津市を訪れると決定し、予備調印に署名と実印を押し帰国。工場の採用人員を30名に規模を順次大きくするよう設計図に取り掛かりました。
年が明け3月、就任一年も経たない石狩町長が亡くなりました。私の兄弟の仲人を務めて頂いた直後です。連日の徹夜会議の疲労が重なったのだろうか、新年度の予算も承認されないままでの急逝。翌日通夜の席での奥様が健気に立派なご挨拶をなされました。
私は高岡の町議時代の後援会長幹部に花川の自宅に来てもらいました。町長候補が支庁長にまとまった事は解っています。
「町議の応援をした時から町長になると思っていた。出るしかないでしょう。」私は「万が一にも当選の可能性がありません。落ちることが決まっている選挙です。」後援会長は「落ちたら又出れば良い。」と成り行きです。
次の日私は、中国天津市の呂志乾先生に「訪問が一か月遅れます。」と連絡し了承されました。当時スタートしたばかりの新自由クラブ衆議院河野洋平さんに電話で応援を依頼しました。
四月末スタートした石狩町長選に出ました。全政党対新自由クラブ対決の構図になりました。告示日、地方紙に「統一候補リード」木曜日「寺内猛追」5月5日投票日「全く互角」と記事が出ました。
最終日高岡から遊説を始め町内を廻り午後6時には新港に協力した山口県から石狩に移住した樽川団地に入りました。一軒一軒を「只今帰りました寺内が最後に皆さんを訪ねました。力を合わせ皆さんの望む石狩町を創りましょう」声を枯れんばかりに呼びかけると家の窓が次々に開き、玄関から皆が飛び出してきたのです。
花川南の事務所に戻ったのは終了の午後8時00分丁度でした。相手候補は午後3時には余裕で遊説を止めましたと後で聞きました。午後9時から始まった開票は深夜までかかり、96票差の奇跡が起こったのです。
翌日河野洋平さんと中国呂志乾先生に当選を報告しました。