• イヌワシの保護活動とワシ羽矢

    新町長が誕生し、石狩町が新旧和合の町創りを目指し石狩川のサケの町から石狩新港の町へと歩みだしました。

    私は1966年の国際見本市に参加して以来、更に弓道の復活に専念した。和弓矢製造工場設置の話し合いも天津市の呂志乾先生(広州の国際見本市の際に大変お世話になった)、幹部との話し合いも順調に進みました。来年4月には本契約に天津市を訪れると決定し、予備調印に署名と実印を押し帰国。工場の採用人員を30名に規模を順次大きくするよう設計図に取り掛かりました。

    年が明け3月、就任一年も経たない石狩町長が亡くなりました。私の兄弟の仲人を務めて頂いた直後です。連日の徹夜会議の疲労が重なったのだろうか、新年度の予算も承認されないままでの急逝。翌日通夜の席での奥様が健気に立派なご挨拶をなされました。私は葬儀の日、会場で今夜11時に自宅に来るようにと言われました。時間があったので助役に労をねぎらいこの後もしっかり町政をお願いしますとお話ししました。夜遅くKさんと前町長夫人を訪ねました。「私が町長選に出ます、宜しいですね」と話しがありました。奥様には「ご主人を申し訳ございません。お疲れでしょうから今日は休んでください。初七日が終わるまではお身体を休めてくださいますように。」と申し上げました。

    翌早朝、助役を訪ねたところ「奥さんの出る幕無いわ、すでに次の町長がきまっている。道庁支庁長だ。道義も各議員も政党に連絡も終わっている。」助役に貴方はどうするのですか?と聞いてみた。「亡くなった直後はその気もあったが今は出る気もない。奥さんが出ても笑い者になるだけだ。」

    葬儀の次の夜、奥様が泣きながらすぐ来てくださいと電話をよこしました。町長の後援会会長、役員を呼んで出馬を話したら全員が反対でした。「後援会は町長あってであり、貴女の後援会ではない。すでに次の町長は道庁から支庁長を迎えると全議員と地元道義も了承した。誰が出ても勝てない。それでも出るというのなら出ればいいさ、民主主義だ出なさい。俺たちは一人も押さない。」

    再びKさんと二人で前町長夫人宅にお伺いした。こんなに悲しい心の内を正に血を吐く思いを私とKさんに語る奥様の心はいかばかりだったでしょうか。翌朝道庁に副知事を訪ね、「次の候補は道庁からの支庁長とお聞きしました。前町長が大変お世話になりました。お礼を申し上げます。次の町長が決まりましたら町づくりをお願いします。少しでも混乱を避けることが出来ればと参りました。前町長と奥様の石狩町にかける思いを受け止めてやって欲しいのです。私も石狩で奥様にお話しします。方法は問いません。集まった議員のお一人でも前町長奥様の思いを町創りに生かしますと奥様を慰めてほしいのです。私は弓道の工場建設で中国天津市に行きますので三年位は日本に帰れません。4,5日中に石狩花川の私宅にお電話頂けますようお願い致します。」「石狩の事を心配していました。やってみます。良いお話をありがとうございます。」

    5日目の朝、副知事から電話があり「やってみましたが勝った話が先行し、どうにもなりません。私の力不足で申し訳ありません。」その間地方紙に「石狩町長選候補決まる。全政党相乗り、支庁長に一本化」と出ました。

    議員の中からは「奥さんの為だ、出ない事が石狩を混乱から救う事です。追い詰められた奥様は出れません。寺内さんが出て無念を晴らして下さい。」

    私は高岡の町議時代の後援会長幹部に花川の自宅に来てもらいました。皆支庁長にまとまった事は解っています。

    前年の町長当選に全力を上げて下さいましたのに志半ばで倒れました。奥様が候補として出馬を予定しましたが既に次の候補が支庁長と決まり全く出る幕がなく断念しました。前町長を呼んだのだから私に町長選に出てくださいと譲りません。

    「町議の応援をした時から町長になると思っていた。出るしかないでしょう。」私は「万が一にも当選の可能性がありません。落ちることが決まっている選挙です。」後援会長は「落ちたら又出れば良い。」と成り行きです。

    次の日私は、中国天津市の呂志乾先生に「訪問が一か月遅れます。」と連絡し了承されました。当時スタートしたばかりの新自由クラブ衆議院河野洋平さんに電話で応援を依頼しました。

    四月末スタートした石狩町長選に出ました。全政党対新自由クラブ対決の構図になりました。告示日、地方紙に「統一候補リード」木曜日「寺内猛追」5月5日投票日「全く互角」と記事が出ました。

    最終日高岡から遊説を始め町内を廻り午後6時には新港に協力した山口県から石狩に移住した樽川団地に入りました。一軒一軒を「只今帰りました寺内が最後に皆さんを訪ねました。力を合わせ皆さんの望む石狩町を創りましょう」声を枯れんばかりに呼びかけると家の窓が次々に開き、玄関から皆が飛び出してきたのです。

    花川南の事務所に戻ったのは終了の午後8時00分丁度でした。相手候補は午後3時には余裕で遊説を止めましたと後で聞きました。午後9時から始まった開票は深夜までかかり、96票差の奇跡が起こったのです。

    翌日河野洋平さんと中国呂志乾先生に当選を報告しました。