• イヌワシの保護活動とワシ羽矢

    一週間後、叔父松本金義と姉トキが来ました。

    これは末吉が作ったた。もう教える事は何も無い。何処でも自由に店を出して良い。弟子達にスエが望むなら私も皆も応援を惜しまない。

    11月末金義夫婦が来て横須賀は如何でしょう。古い家ですが改造すれば小さな弓具店と弽製り工房が可能です。そしてその歳の暮れ末吉はあわただしい見合いと結婚をした。妻になる岡崎万亀子は5人兄弟の長女。父唯一(ただいち)は世界軍縮会議により40歳で退役。囲碁将棋の隠居生活。万亀子は横須賀駅前の「サイカヤ」デパートしか知らない軍人の娘。翌年三月横須賀上町に和弓専門店を開きました。

    福島から16歳の佑正さんが弽見習いで来ました。宇都宮からお手伝いのミキちゃんが来ました。弓具店は海軍の専門御用になり一度に巻藁250個の注文を受けるなど繁盛しました。

    末吉と万亀子の間には次々と男の子が生まれました。末吉は横須賀の句会に入り海で魚釣りをしました。束の間の安息でした。

    時勢は風雲急を告げていました。ノモンハン.大東亜戦争と展開、末吉は開戦当日頭を剃りました。華々しい開戦から翌年末には来店するお客さんから玉砕など戦況は思い通りで無いとの話が入りました。佑正さんも横須賀の店から応召しました。本土決戦.国内戦になれば横須賀が最初の戦場になると市民は思いました。

    末吉は北海道石狩に疎開しようと考え、店を閉め岡崎唯一氏に留守を頼みました。万亀子.4人の子供.ミキちゃんを連れ石狩高岡に帰りました。高岡に一旦帰った後、兄家義に家族を頼み再び末吉は横須賀に戻りましたが身体を壊し入院先の千葉の病院で玉音放送を聞き、病院から裸足で抜け出し石狩高岡に再び帰り着くと年末迄起き上がる事が出来ませんでした。

    年が変わり元気を取り戻した末吉は兄家義氏から五反の田畑を借り耕作の準備を始めました。松本金義トキ夫婦も高岡に来ました。林の木を切り倒し藁屋根の家を造りました。

    母万亀子は茶道.華道(池坊)を高岡の婦女子.青年に教え始めました。高岡小中学校長が訪ねてきて、奥さんは教員免状をお持ちと聞きました、戦争で教員が足りません。家政科.国語.中学校の音楽をお願いします。母は高岡で教員生活をスタートした。高岡小.中学校の教員になりました。四人の子供達は母の教える高岡小中を卒業すると札幌西高.明大に進学しました。長男は明大で弓道部に入り、私靖治は西高弓道部を創設、明大政治経済学部に一年遅れで入学し、弓道部に入部した。当時明大弓道部は生田に有り、小笠原清信先生が顧問を務めており、明大の経済学部長でもありましたので大変お世話になりました。

    岡崎唯一氏が家族と石狩高岡に来て同居しました。
    長男さんは学徒動員玉音放送を横須賀の兵舎で聞き父親に出征時預かった軍刀を出し左手に巻紙に右手で筆でを取り「先立つ不孝を御許し下さい腹を切って果てます」。伝令に持たせた。唯一は「早まるな、生きて万難を乗り越えよ国を興せ」長男さんはハラハラと涙を流し白装束のまま庭に出てサクラの木に向い足を踏まえ深呼吸をし渾身の力で振り下ろした。枝は切れ、余った力は足をを深く切り即入院となりました。その後、石狩高岡で一年程歯科医院を開業した後手稲町に移りました。


     終戦翌年東京から二人の弓道の先生が松本金義を訪ねて来た。
     武徳会も解散となり日本弓道連盟になるようです。東京に帰って来て下さい。これからの弓道の要となり我々を指導して下さい。「私は戦前の弓引きです。天皇様も武徳会も変わります。新しい弓道は皆さんで創り上げ新たな道を歩んで下さい。私はこの地で見守ります。お願いします。」と金義は言った。
     帰られたあと金義は末吉の家に来て今後の弓道再生は若い皆に任せ我々は出来る限りの応援しましょう。
    金義は麻弦を作りましょう。末吉は弽を製作しましょうと話し合った。
    金義は翌日直径9㎝程の弦張用竹を100本発注した。
    末吉は弽製作をする事にし、東京上野の友人久保田万太郎氏に鹿革を発注した。

    翌年東京から再び弓道の先生がいらした。二人の内一人は代わっている。
     「遠路ご丁寧に有難うございます。昨年申し上げたとうりです。」と金義は話した。
     「東京でそう言われると思ってました。実は金義先生の教えに残身の一節を加え8節とすることをお許し下さい。お願いにきました。」「皆さんで決めて下さい。新しいルールで新しい弓道を作り上げお進み下さい。」二人が帰られた後、金義は父の処に来て、引き方は自由なもの離れの後は更に自由に開放される。次の射はゆっくりとした呼吸から始まります。一節加える毎に新たな理論.理屈が起き益々自由が後退する。上が間違えると多くの人も間違えるでしょう。それでも引きたいと弓力が落ち身体が悲鳴を上げるでしょう。30年後には弓力半分.故障者倍増するでしょう。二人は夜、更けるのも忘れ話込んだ。

    松本金義は自宅庭に谷越えの地形を生かした野立ちの小道場を作り一日に巻藁2本。熊鷹の一手を引くとその日の練習は終わりでした。
    十年間的を外したの見た事が有りません。甲矢は右上.乙矢は左下といつも同じ処に的中していました。
    その間麻弦を作り冬場には石狩の漁師の奥様達に下請けの弦を編んでもらい回収し用意の竹に張り1週間で100本仕上げました。
    可愛らしいお孫さんも東京から来られて小学校卒業するまで藁屋根の下仲よく遊んでいました。