• イヌワシの保護活動とワシ羽矢

    私靖治は札幌西高で弓道部を創り、卒業し石狩に帰ると4月に石狩高岡で小さい弓具店をスタートさせました。
    その後、一年間働き学費を貯めて明大に入学した。高岡に来て弽を製作していた佑正さんと一緒に上京した。東京杉区青梅街道沿いに古い家を相談して借り、弓射的場と弽工房併用の店を出しました。
    佑正さんは先の大戦で重機関銃の砲手として従軍し、腰の骨を打ち砕れ歩くのも困難でした。

    お金が入ると、坊ちゃま寿司喰いに行くべと言うので「お坊ちゃん」と呼ぶのはそれだけは止めて下さいお願いします。と言ったが、福島弁で何も変んネエと息子さんと三人で寿司をたべた。
    1年間一緒に弽を製作した。製作していると弓道の先生方も来て弓が弱くなったと言っていた。
    その後、佑正さんは奥様と息子さんと会津若松に戻り弽を製作し続けた。
    後日、私が中国から輸入したイヌワシ羽根の矢を送ると大変喜んでくれました。
    佑正さんが亡くなられてた時、家内と会津を訪ねると部屋の真ん中にの大きい長火鉢が置いてあり、息子さんが父の形見ですと言いました。私は会津若松市内でトチノ木のコネ鉢を大.中.小と三個買い求め今も大切に石狩で飾っています。
     
    ミキちゃんは生まれ故郷宇都宮に帰り幼馴染と結婚しました。坊ちゃまがこんなに大きく成ってと泣きだした。

    石狩の両親も兄弟も皆元気です。というと泣きながら笑いながら無事を喜んでくれた。
    傍でメガネのご主人が笑顔で頷いていました。宇都宮から特急電車に乗ると東京に直ぐ着き、こんなに近いのかと思いました。

    大学在学中、教科書は全て兄達の使ったお下がりでした。卒業まで4年間春休み.夏休み.冬休みと石狩と東京の往復でした。合間を見て各弓具店を佑正さんと廻りました。
    上野の久保田万太郎商店(鹿革販売)がボウリング場を始め、父末吉にボウリングの球をお土産にくれました。石狩に持ち帰り父とボウリング場に行くと、小柄な父は試しに一度投げ、ガーターでした。
    以降は二度とボウリング場に行きませんでした。

    大学を卒業するとすぐ石狩に帰り高岡の弓具店を再開しました。

    バスに乗り札沼線に乗り継いで弓道普及に全道各地を廻りました。高校での大会出場が役に立ち各地の高校の顧問の先生.弓道の先生方が歓迎して下さいました。戦後の復興期ですから皆様の応援は大変助かりました。バスの中に弓・矢・弽や部品も持ちこみます。一度に20張の弓をバスに乗せてましたが相当無理でした。今では考えられない事です。乗車の皆様にご迷惑をお掛けし今でも思い出して恐縮しています。

    大戦で失われた日本弓道復活に必至でした。
     
    私は、25歳になり被選挙権を得て石狩町議戦に出ました。