• イヌワシの保護活動とワシ羽矢

    静岡萩原正澄師訪問 

    父末吉に公害調査で静岡に行くと話した。「萩原正澄さんに会えたらよろしくお伝えください。」と父が言づけた。

    富士市の公害状況視察を終え焼津にまわり萩原正澄師匠を訪ねる。突然の訪問でしたが、父の名前と意をつたえると、「末吉さんが北海道で弽を作り始めたと祐正さんから聞いてました。末吉さんにはお世話になりました。」と正澄師匠は言った。私は「石狩高岡で五反ほどの農業と弽作り、俳句も教えています。」正澄師匠は「弟子時代に我々が外から帰ると漱石や高浜虚子を見て俳句の会にも通っていました。」と父の弟子時代の様子を私に話してくれた。「北海道で弽の必要時はいつでも言って下さい。」正澄師匠がそう言ってくださり、早速仕上がっている弽を見せてもらうと縫いも形も父の弽と似ておりました。

    陽が高かったので「矢師の曽根剛さんを訪ねます」と正澄師に言うと「同じ小川ですから案内します」師匠と一緒に尋ねました。曽根剛師匠宅の庭に刈り取ったばかりの矢竹の束10数個、約5000本が乾燥中でした。

    当時は弓力も強く四つ矢で130g程度の矢が売れました。弓道復活時は関東静岡の竹矢が全盛でした。

    その後、お二人から長い間北海道に製品をお送り頂きました。

    また、北九州市小倉新町の楠見祖峰弓師に会い、北海道に弓をお送り頂きました。熊本県芦北の初代肥後三郎師匠を訪ねました。球麿川の道路を挟んだ白石の高台に工場があり完成途中の弓を張り台で調整中でした。その後、ご夫婦で石狩にお見え下さいました。都城市小倉紫峰師匠父子。横山黎明師匠にお世話になりました。ご夫妻も晩年石狩にお見え下さいました。都城は市自体が日本を代表する弓の都市です。楠見蔵吉師匠とは50年ほど前に北海道からスキー用のグラスを送り竹とグラスの組み合わせをお願いしましたが研究途中で亡くなられてしまいました。

    数年前、小さかった息子さんが立派になられ宮崎の市長さんと並んでTVで製作したグラス弓を説明されていました。蔵吉師匠を思い出しました。夢を実現されたお父様と息子様に石狩から大拍手を送りました。全国の弓師、矢師の皆様を始め、数多くの弓道関係皆様に支えられた弓道人生でした。